愛洲陰流兵法

 

 愛洲陰流兵法は、日本の兵法三大源流(念流・陰流・新當流)の一つで、室町時代中期に、愛洲移香斎久忠が、日向国(九州の宮崎県)に渡り、蜘蛛に化身した神から秘伝を授けられて創始したと伝わる古流剣術である。

 

 陰流は、念流や中条流の技名との類似性が以前から指摘されてきたが、この関連性を裏付ける様に、愛洲移香斎は、かつて『猿御前』と呼ばれ、念流開祖である念阿弥慈恩(奥山念阿弥陀仏)に師事して、日本最古の剣術流儀である念流の秘伝奥義を極めたという言い伝えが、黒田家に残っている。

 

 そして、愛洲移香斎は、念阿弥慈恩の高弟として、十四哲の達人の一人に数えられ、後に『愛洲陰流兵法』を興して、家督を継いだ愛洲元香斎小七郎が同流を継承した。

 

 その後、愛洲移香斎と愛洲小七郎に師事した剣聖上泉武蔵守信綱が、愛洲陰流兵法第3代を継承、特に陰流から奇妙を抽出して、幼少期から学んできた新當流の『新』の字と陰流の『陰』の字を折衷して『新陰流』と号し、新たに流儀を興した。

 

 これにより、愛洲陰流は、以後、新陰流の一部となって併伝され、柳生家を中心に伝承されることになる。

 

 柳生家信が相伝した愛洲陰流の秘伝技法には、永禄九年(1566年)に、上泉信綱が柳生宗厳へ発行した有名な影目録の『燕飛』や燕飛奥の『獅子奮迅・山霞』、陰流由来である『天狗抄太刀数構八』がある。

 

 『天狗抄太刀数構八』とは、天狗名を付して隠語や漢数字で秘匿されたり、詳細を伏せて省略されたりする事もあるが、『花車・明身・善待・手引・乱劔・二具足・打物・二人懸』の8本から構成され、最後の3本は、俗に天狗抄奥とも呼ばれ、江戸柳生家においては、『序・破・急』として秘伝とされてきた二刀や多敵に対する応じ技である。

 

 これは、大和柳生(柳生家信伝)、江戸柳生、尾張柳生のいずれにおいても共通しており、今日まで秘事とされてきた歴史がある。

 

 また、燕飛(猿飛)は、上泉時代には初太刀として伝授されていたが、柳生家においては、時代を経るにしたがい、源流である陰流燕飛や新當流七太刀は新陰流の中で尊ばれ、極意的な要素が内在する為、次第に、三學・九箇以降に教伝される事が多くなった。

 

 これは、柳生家の新陰流だけでなく、肥後新陰流などの他の系統の新陰流においても同じ傾向が見られる。

 

 続け遣いで演武される柳生家の燕飛は、『燕飛・猿廻・山陰・月影・浦波・浮舟』の6本、疋田家の猿飛は、『猿飛・猿廻・山陰・月影・浮舟・浦浪』の6本で構成され、技の区切る部分に変化はあれど、両流儀とも最後は投剣を折り敷いて打ち落とす形で技を終えるのが、本来の古式の使い方であり特徴である。

 

 新陰流の末流である示現流や、皆伝制度が崩壊し特異な技法などが失伝した肥後新陰流にも燕飛(猿飛)はあるが、わずかに類似性は残すものの、技法的に変遷が著しく、いずれも、現在では、絵目録にあるような投剣では使われていないのが実情である。

 

 肥後新陰流の伝承の歴史については、残存する技を相伝した関係者らから直接聞いた話によれば、免許皆伝者がいなくなり、伝位制度が崩壊して、続け使いの猿飛を復元した過程での誤伝である事が判明している。

 

 その様な意味で、上泉時代の絵目録や伝書内容と一致して共通点が多く、最も本来の古式の形をとどめながら今日まで現存しているのは、尾張柳生を始めとする柳生家伝来の燕飛である事は、歴史的にも技法的にも間違いないと言える。

 

 現在、陰流燕飛(猿飛)の続け使いの技については、必要な場面で小手を押さえて敵の動きを封じる口伝、四指を切り飛ばす口伝、燕飛(猿飛)の最後に、投剣を折り敷いて打ち落す事などを知らない会派も多く、陰流の正しい技を受け継ぐ伝承者は、新陰流会派でも、年々少なくなっている。

 

 当会においては、本来の古式の使い方や様々な口伝を大切にしながら正伝を伝承している。

 

 今日、陰流は、新陰流の一部として同化してしまったが、当会では、今も日本の貴重な伝統芸能として脈々と受け継がれている。

 

 


疋田伝猿飛目録の最後の技

『浦浪』

黒田藩有地家伝来の絵巻物
『獅子奮迅・山霞』