柳剛流兵法

 柳剛流兵法は、岡田惣右衛門源奇良(1765年 -1826年)が開いた総合武術で、剣術、居合、杖術、薙刀術などを含む日本の伝統芸能である。

 

 流名の由来は、岸辺の柳が、強い風で川面に打ちつけるも、決して枝折れする事がなかった事から、その柳の剛健な強さから悟りを開き、流儀を『柳剛流』と命名したと言われている。

 

 幕末には、全国各地で隆盛し、仙台藩を始めとする各藩で伝承され、新選組の近藤勇でさえも採用されなかった幕府講武所の剣術師範教授方に、当流の師範が採用されるなど、その質実剛健で実戦的な剣術を幕府も認めていた。

 

 入門を希望する者も多く、北辰一刀流を凌ぐ門下数を誇ったと伝えられている。

 

 流祖の岡田惣右衛門が記した目録に『当流者元来心形刀流也』とある様に、柳剛流は、柳生新陰流と圓明流を学んで創始された『心形刀流』が源流であり、後に、修行をした三和無敵流・東軍新當流の技法を加え、当流が生まれた。

 

 試合においては、斬撃時に飛び違いを多用し、容易に防げない脛斬り殺法を得意として、他流から恐れられた。

 

 『新陰流・新當流・圓明流』を修めた皆伝者の立場から、率直に当流の技法に対する見解を述べるならば、柳剛流の剣術は、源流である柳生新陰流の二十七箇条截相を基にして、様々な構えに対する応じ技が構成され、二刀の口伝の術技は、宮本武蔵の圓明流や武蔵流から採用されている。

 

 また、槍・薙刀・居合は、所作ともに、新當流の影響下にあり、杖術は、岡田惣右衛門が柳剛流の創流以前に学んだ三和無敵流の突杖術と柳生流杖術を基にして制定されたと考えられる。

 

 当会においては、柳生新陰流と圓明流の流れを汲む末流の伝統芸能として、柳剛流兵法の伝統文化を守り、流儀や伝承が途絶える事がない様、相伝されてきた業を大切に伝承している。