尾張藩圓明流兵法


 新免武蔵守藤原玄信(宮本武蔵)は、二刀剣術を極め、60余の闘いで、生涯無敗を誇った天下無双の剣聖である。

 

 黒田藩士であった養父、新免無二斎から當理流を学んで圓明流を興し、晩年には二天一流と流儀を改め、熊本藩で五輪書を執筆、『 五方之形 』と呼ばれる二刀剣術の極意を伝えた。

 

 圓明流兵法は、宮本武蔵が、二天一流を創始する以前に開いた剣術流儀である。

 

 二刀だけでなく、脇差や短刀を投げる手裏剣術も含み、尾張藩、龍野藩、小倉藩などで伝承されていた。

 

 圓明流は、宮本武蔵の弟子である青木金家を始めとする青木家が伝えた圓明流と、宮本武蔵の養子である竹村与右衛門頼角によって伝えられた圓明流が現存している。

 

 竹村頼角の系統は、宮本武蔵が尾張を去った後、尾張藩士寺尾直正の嘆願を受け、宮本武蔵が、養子の竹村頼角を尾張藩に推薦した事で、その道統が受け継がれた。

 

 その後、宮本武蔵と竹村頼角に師事した林資龍・八田智義が、竹村より印可を受け、八田智義は、柳生新陰流で使用する袋竹刀を採用して、門人を指導したと言われている。

 

 八田より印可を受けた左右田邦俊は、門弟が千人にも及び、当時、圓明流は、尾張藩の主要な剣術流儀であった。

 

 左右田邦俊が、宮本武蔵の百回忌の延享元年 (1744年)に建立した『新免武蔵守玄信之碑』が、現在も愛知県名古屋市の笠覆寺に残っている。

 

 左右田家は、尾張藩の圓明流師範家であったが、左右田邦俊から数えて4代後の左右田邦淑の頃、左右田家が家門断絶したので、邦淑の弟子で、尾張貫流槍術の師範家であった市川長之が圓明流を継承し、その後、市川家が代々、圓明流の師範家として流儀を伝承した。

 

 昭和に入り、九州で圓明流を相伝していた黒田藩柳生新陰流兵法正統第14代濱田勢州が、新陰流や圓明流を更に極めるべく、柳生厳周の最高弟であった神戸金七・新陰流居合範士の鈴木安近・尾張柳生師範家の渡辺忠成と親交を深め、圓明流師範家であった神戸金七に師事して、尾張藩伝承の圓明流を修めた。

 

 そして、濱田勢州は、尾張藩に伝わる圓明流兵法と新陰流兵法の皆傳印可を修めると共に、九州で既に相伝していた圓明流と、尾張藩圓明流の兵法三十五箇条を統合して流儀を継承した。

 

 その後、濱田勢州の高弟であった光武勢州斎藤原秀信が、尾張藩圓明流兵法第17代を継承、尾張柳生に伝わる圓明流の両刀術も相伝し、今日に至っている。

 

 当会では、青木家伝来の圓明流と共に、尾張藩伝来の圓明流が大切に伝承されている。

 

尾張藩圓明流兵法

第16代宗家 濱田勢州